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赤ちゃんポストに感じる違和感の正体

──歴史・政策・文化をまとめてみた

赤ちゃんポストはなぜモヤモヤするのか

TIMEをめくっていると

「赤ちゃんポストがアメリカ国内で増えてきた」

という記事があった。(TIME ASIA / NOV3 P44)

アメリカでは、中絶を違法化する州が増加していて

妊娠した女性は、望む望まないに関係なく、出産する流れになる。

でも、新生児の死亡数が増えるのは避けたい。

そんないびつな流れで赤ちゃんポストが設置されるケースが増えているらしい。

記事内によると、2025年だけで、すでに22人の新生児がポストに入れられたそう。

しかし、その半数の11人は命を落としてしまったそうだ。これには投函前後のさまざまなケースが含まれていて、原因は1つに絞れないと言われている。

それでも赤ちゃんを遺棄した親が罪に問われることないように、法律が整備されている最中だそうだ。

…なんだか、かなり違和感を感じてしまう。

「なら産むなよ」なんて、口が裂けても言えない。

そもそも望まれない妊娠の可能性もあるし。

赤ちゃんポストに入れた親が「どういう気持ちだったのか」を考えるだけで、胸が刺すように苦しくなる。

けれど、この赤ちゃんポストの制度が、最適解だとも思えない。

いろんな気持ちが渦巻いた。

だから、この記事で、

「赤ちゃんポストがなぜ僕をモヤモヤさせるのか」

を考えてみようと思った。

赤ちゃんポストは「日本にも昔からあった」

やむを得ない理由で、産んだ赤ちゃんを捨ててしまう

そんな話題は、もちろん日本にも昔からあって。

ChatGPTに聞いたところ、こんな歴史になっているようだ。

1. 間引き(まびき)|江戸〜明治初期

もっとも有名で、もっとも多かったとされるのが「間引き」

出産直後に、新生児の首を絞めたり、水に沈めたり、雪の中に置く。

なぜ行われた?

理由はほぼこれ一つ:「貧しさで子どもを育てられなかった」

江戸期の農村では、「家を守るために口を減らす」という“家制度”の思想が強かった。

食料不足や農地の細分化、女性の過重労働、乳幼児死亡率の高さ。これらが重なって、間引きは“必要悪”として黙認されたらしい。

仏教の戒律では本来禁止だが、住職が「水子供養」を通じて事後的に救済するという構造があったとのこと。

2. 捨て子(すてご)|奈良〜江戸

赤ん坊を、お寺や神社の前に置いていく行為が「捨て子」

極端な貧困で行われるのは間引きと同様だが、

•不義・差別婚の子

•未婚の妊娠

•家の体面

など、いわゆる「望まれない妊娠」の場合に行われることもあったそうだ。

「育てられるのに、社会が受け入れないから捨てる」

貧困とは違う、道徳的な問題で行われる場合もあった。

お寺は「拾い子」を引き取ることが多く、

後に座(宗教的ギルド)や、ごく一部は遊郭の子として育つ例もあったそうだ。

座とは、猿楽や田楽などの芸能集団、傘張り職人、鍛治家などの技術者集団。

お寺の保護下で活動し、血縁に頼らず子供を育て、労働力にする文化があったそうだ。

これはヨーロッパの“孤児院”に近い。

3. 子捨て穴(こすてあな)|地域限定(山間部)

土に掘った穴に赤ん坊を遺棄する習俗。

これも、家や共同体の生存を優先する行為として研究されている。

4. 口減らし(くちべらし)|江戸中期の飢饉時

famine(飢饉)が起きると一気に増えた。

特に

• 享保の大飢饉

• 天明の大飢饉

などで多発したそう。

大人が餓死しないように、幼い子を優先して処分した悲しい歴史。

しかし、個よりもより大きな共同体(家、集落、藩)を守るためと考えれば、

悲しいことではあるが、否定はできない。

5. 明治以降:「孤児院」や「養育院」が登場

国家が近代化すると、国が子どもを保護し始める流れが生まれた。

• 石田梅岩の慈善事業

• 石井十次の岡山孤児院(1891)

• 東京市養育院(1871)

などの保護施設が生まれた。

子どもは社会で守るべき存在という価値観が生まれ育った時期。

そして、

6. 現代:「赤ちゃんポスト」(ドイツ発)の導入。

日本にも、熊本の「こうのとりのゆりかご」(2007〜)が組織として運営されている。

歴史をなぞっていくと「捨て子」の現代化とも解釈できるが、

新生児と親の安全確保を優先した制度として合法化されている。

熊本・慈恵病院の赤ちゃんポストは、2007年から2022年の16年間で170人を受け入れている。日本の赤ちゃんポストは事実上ここ1か所だけなので、この数字がそのまま全国の実態だと言える。

日本では赤ちゃんポストが事実上、熊本の慈恵病院に1か所しかない。

そのため、母親たちは他県から新生児を連れて深夜のバスで熊本へ向かうケースがある。

「困ったときに相談できる場所が地元にない」という問題が、「遠方から熊本まで新生児を連れ移動する」という行為そのものに表れている。

赤ちゃんポストという「強い」光

ここまで、日本の「子を手放す」歴史の流れで赤ちゃんポストを考えてみた。

思うのは、赤ちゃんポストはネーミングとして強すぎるということ。

良くも悪くも、話題にされやすい。

古くからあった「子を手放す」という行為に

赤ちゃんポストという、ちょっとポップな名前がついてしまったことで、

古来「内々に、密やかに、恥や悔しさの混じったであろう感情で」行われていた

歴史の闇に光が当たってしまったのだと思う。

「そんなに堂々と見せるものではないのでは?」

「子捨てが正当化されてしまうのではないか?」

っていう違和感が、僕の中にある。

でもこの僕の気持ちも、きっと正解ではないはず。

見方を変えれば

新生児を捨ててしまう現実に、焦点を当てて、

政治やSNSでの議論の場に引き出した、とも言える。

これは一定の功績だと思う。

でも、「事情があるのだからそっとしておいてやれよ」

とも思ってしまう。

つまり、もともと人が感情的になりやすいテーマに強い光が当たりすぎて

闇の深さがよく見えてしまう状態になっているのだ。

賛美両論にならないはずがない。

「赤ちゃんポスト」という地雷原

「赤ちゃんポスト」には、とても多くの地雷スイッチが埋め込まれている。

どれも簡単に人を感情的にさせうるテーマだ。

「社会をクリーンにしたい」政治と「人に言えない、知るべきでないこともある」慣習

恥と救命、

宗教と実生活

性欲と理性

そして、

男と女。

その揺らぎの要素どれもが「生まれてきた命をどう扱うのか(どう扱えるのか)」という

個人にとっても共同体にとっても重要なテーマに繋がっている。

■ 1. 政治と慣習

政治は「制度」を設計したり、社会に問題提起をし、よりよい社会を作ろうとするが、

その行政の受け手である一般市民は、全てを透明化されることを拒む心理も持つ。

「うちうちに済ませる」「見て見ぬふりをする」「公にしないことが善のケースもある」

そんな感覚を持っているのではないだろうか。

そこを公にされると、恐怖を感じたりする。

そして、一見社会を透明化し良くしようとしている政治家も

選挙のための実績づくりや、利害関係を考えてメッセージを打ち出すことも十分考えられる。

だから、どちらかが正しいなんてケースは、ほぼあり得ない。

赤ちゃんポストは、制度(政治)が、文化(慣習)が抱えてきた闇に光を当てた結果。

でも文化は“見えないところで処理してきた歴史”が長いから、制度の透明性とぶつかる。

この摩擦が違和感の根っこだ。

■ 2. 誇り(恥)と救命

赤ちゃんポストは新生児の命を救える可能性を高めるのは事実だと思う。

けど、自分の近所に赤ちゃんポストがあるのは

「私のところの共同体は妊婦に優しくできない、助け合えないコミュニティです」

と宣言しているようで嫌

そういう心理も間違いなくある。

誇り(恥)と倫理が引っ張り合う。

どちらも“正しい”が、同時には満たせない関係。

この二重構造があるから「どっちを選んでも苦しい」

■ 3. 宗教のダークサイド

何かを厳密に信じすぎることの弊害も見て取れる。

特にキリスト教系の土地では、

•妊娠中絶はタブー

•だから産むしかない

•でも育てられない

・結果として赤ちゃんポストが制度化される

「命を神のものと扱う」思想が、逆に“生まれた後の命の扱い”を難しくしてしまっている。

「中絶はどの程度の段階まで許容できるか」

という合理的な議論が進まない可能性も考えれる。

宗教や倫理が、合理的な選択を阻む例。ただ、「合理的な選択が全て善」という価値観もまた極端である。

■ 4. 性欲と理性

そもそも「望まない妊娠」を防げれば赤ちゃんポストは不要になるのであろうが、

人間はそんなお利口にできていないという事実も、受け入れなければいけない。

「性欲」や「情」を完全に制御できる人などいるだろうか。

• 避妊の失敗(生でしたい)

• 無理解(避妊の知識不足)

•避妊具が簡単に手に入らない環境

• 男女の同意の問題

• 性被害

どれも「現代でも普通に起こる」。

弱さ、と断ずることは簡単だが、人は“弱さが前提の生き物”。

どんな人でも、環境や教育の水準で理性を制御できなくなりうる。

だから制度が必要になる。

■ 5. 男と女

赤ちゃんポストは構造上、

「女性だけが責任を負う構造」を前提に設計されている。

これが現実の歪み。

男性側の責任は、制度上ほとんど問われず

女性だけが“遺棄した罪”を背負わされる。

世間的には無罪とされても、「我が子を手放した」という罪の意識を引きずってしまうのではないか。

だから本当は「赤ちゃんポストがない世界の方がいい」

川上と川下

全国47都道府県赤ちゃんポスト広める会の代表理事、佐藤匡史氏は

『赤ちゃんが生まれた瞬間を起点とすると、それよりも前の「妊娠」「出産」を「川上」、それ以降を「川下」と表現することができます。』

と発信している。

赤ちゃんポストは、出産した新生児への「川下」の対処といえる。

一方で

「避妊の知識を提供する」

「避妊具が行き渡る仕組みを作る」

「性的暴行をなくす」

これらは川上であり、氏の言うようにこれから必要になる対策だと思う。

そしてこれは、男がやるべき課題だと思う。

ちゃんと避妊をする

女性を「はけ口」として扱わない

など、男の在り方を正していくことが必要になると思う。

僕も、自分を律していきたい。

by照

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